アルザス地方、城めぐり

アルザスとは

アルザスはヴォージュ山脈とシュヴァルツバルト(黒い森)の間に位置し南北を貫くかたちの細長い平野、中心にはライン川が流れ、昔から街道として交通が盛んだった理由がよくわかる。古代の時代からワイン生産も盛んな豊かな土地とくれば、ドイツととりあいになるのは自然のことなのだろう。

アルザスの田舎風景

アルザス地方は城塞が多くて有名な地域。100以上を数えるその大半は廃墟となっているが、アルザス地方独特の田舎風景として、そして中世的なロマンティックな風景としていまでも人気は高い。城塞というからには当然戦が行われたのだが、誰と誰が戦ったと簡単に説明できないほど長い間をかけて様々な貴族達が競いあいをした。ざっくりと代表的な貴族だけ羅列してもエギスハイム公 (Eguisheim)、フランケンブルグ公 (Frankenbourg)、フネブルグ公 (Hunebourg)、フェレット公 (Ferrette)、ホーヘンシュタウフェン公 (Hohenstaufen)、ハブスブルグ公 (Habsbourg)と長いリストになってしまう。そしてその一連の抗争はアルザスの文化形成に深みを与えるのであった。

中世に誰が何をしたか、なんて話は読者の読む気をそぐかもしれないが、一回読んでしまえば効率的にアルザス通になれると諦めて以下の章に進んでいただきたい。

城というのはフランク族の産物である

アレマン人という民族とフランク人という民族、もとをたどれば隣接地域出身のゲルマン民族なのだが、ローマ帝国が破綻してヨーロッパは混乱し民族大移動がおこった。数世紀という時間の経過とともにアレマン人は南西ドイツに、フランク人は北フランスに定住していく。

アルザスはアレマン人とフランク人の生活圏が重なりあう地域だったのだが、6世紀にアラマンを制圧したフランク族はアルザスを制覇。その後フランス地域全体を支配していくようになる。

9世紀、西ヨーロッパ統一に成功したカール大帝が死に、同時にハンガリーからせめて来るマジャール人により情勢不安が訪れた。自由人は自由を放棄してまでも守られた環境で農作活動を希望するようになり地元の有力者に封臣するようになる。このようにして各地方の貴族は形成されていく。これが封建制度のはじまりである。貴族制度が形成される前の10世紀には城らしきものはない。つくられたとしても木造の防壁やもり土程度であった。

貴族とは

ちなみにフランスの王様はその貴族のさらに上に君臨する人であり、世襲制である。ここがドイツと決定的に違う。当時ドイツという国は存在せずドイツ神聖ローマ帝国という名のもと最上位に君臨する皇帝が各地方をゆるくまとめていた。皇帝の権力はドイツの諸侯、イタリアの都市、教皇から制限されていた。ちなみにこの頃、アルザスは神聖ローマ帝国下の一部であるシュバーヴェン地方に属していた。シュバーヴェン地方を牛耳る貴族の紋章はライオンが3つ並んだデザイン。今でもアルザスのあちらこちらにたくさんみられるライオンの絵柄はここからきている。アルザスには銭湯も点在する。こちらもお風呂文化のあった神聖ローマ帝国から影響を受けているからである。

 

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10世紀頃、貴族達の間にもヒエラルキーが構成されるようになる。最下位は男爵 (baron)、次に子爵 (vicomte), 次いで 伯爵 (comtes – ドイツ語でGraf) 、公爵 (ducs – ドイツ語でHerzog)と続く。公爵は様々なところに土地を所有する人の意である。 侯爵 (marquis – ドイツ語でMarkgraf)は伯爵と公爵のあいのこのようなもので土地を管理•保護する立場にある。最後に最高位として王様である。封建制度初期に形成されたアルザス出身の田舎貴族にはオルテンブルグ公 (Ortenbourg)、フェレット公 (Ferrette)、フネブルグ公 (Hunebourg)、フランケンブルグ公 (Frankenbourg)、エギスハイム公 (Eguisheim)などがいる。これらの位を所有する貴族たちは土地においては君主。各自が戦争を行う権利、税金を徴収する権利、裁判や造幣する権利をもっていた。

エギスハイム家 (Eguisheim)

11世紀になるとエギスハイムの貴族が婚姻戦略によって力をつけ、現南アルザスを仕切る程度の政治的な役割を担っていた。(地図1)1049年には神聖ローマ皇帝の援助を受けてエギスハイム家から教皇レオン9世が誕生する。しかし法王の選出はローマの教会によってなされるべきたと、皇帝の選出に反対する声が高まった。教皇派と皇帝派の戦いの幕けである。不思議なのはレオン9世を輩出したエギスハイム家が支配する地域は教皇の立場をとったこと。自ら身を危険に晒すこととなる。これは、エギスハイムが神聖ローマ帝国の中でも最南端に位置しマージナルな地域であり、皇帝の影響はさほど強くなかったと考えられる。(地図2)

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地図1
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地図2当時の神聖ローマ帝国の国境は黒い太線。アルザスが神聖ローマ帝国の端に位置していたのがよくわかる

レオン9世と神聖ローマ帝国の皇帝が相次いで他界。そうこうしている間にローマでは神聖ローマ皇帝が教皇を選ぶ権利を剥奪することを決定し、選出権利はバチカンお膝元の僧侶にのみに与えられることとなる。しかもそんな渦中ローマによって選ばれた教皇はグレゴリウス7世ときたもんだ。有名な教皇ベスト3に入る、覚えておきたい歴史的人物である。グレゴリウスは教会の大改革をし、バチカンの権力安定を決定づけた教皇である。(同時に僧侶の結婚も禁止された。)当たり前の流れなのだが、神聖ローマ帝国は反発する。皇帝はグレゴリウス7世の教皇選出は違法と抵抗するが、なんと教会から破門されてしまったのだった。こうして長い間、皇帝と教皇の叙任権闘争が続いた。

「反ローマ教皇なのか、反神聖ローマ皇帝なのか」ということだが、両国ともにローマが入っていて本当にややこしい。教皇=イタリア、皇帝=ドイツと考えていただきたい。

12世紀の城

さて同じ頃、アルザス地方ではバール (Bâle – 現スイスのバーゼル)の司教とストラスブール (Strasbourg – 現アルザスの首都) の司教が教皇派のエギスハイム公に反発していた。エギスハイム公は両者に挟まれる形になった。

城塞が多く作られはじめるのは12世紀初頭であるこの時期にあたる。エギスハイム城 (Eguisheim)、タンヴィレ城 (Thanvillé)、ギルバーデン城 (Guirbaden)の3箇所はエギスハイム公によって建設させられた。ハグノー城 (Haguenau)、リュツエルブルグ城 (Lutzelbourg)、ホーヘンブルグ城 (Hohenbourg)、リボーヴィレ (Ribeauvillé)上部のサン•ウルリック城 (Saint Ulrich – 当時はGrand RIbeaupierreといった)はホーフェンシュタウフェン家とその傍家の所有。地形を利用した配置、そしてお堀、要塞という点で共通した城塞建設である。ヴォージュ山脈の中部から南部にかけてはおわん型の山頂をもつ山がおおかったので山頂に城の建設が顕著である。北部の山は岩山で建設に向かない地形なので岩を削るようにしての建設が特徴的だ。天守はあるものとないものがあり、ある場合は要塞に守られた敷地のど真ん中にたっていた。(地図3)

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地図3

ホーヘンシュタウフェン家

神聖ローマ皇帝は、騎士の中でも一番勇敢と表しフレデリック•フォン•ビューレン (Frédéric von Büren)に自分の娘を嫁がせシュバーヴェン地方の土地まで与え、アルザスを管理する使命をも与える。しかし、フレデリックのお母さんはエギスハイム家出身。なんという運命!いや、策略であろう。とにかく、フレデリックは地元シュタウフェンにある城の名前をとり、フレデリック•フォン•ホーヘンシュタウフェンと名乗るようになる。

フレデリックはセレスタ (Sélestat)、ホッシュフェルデン (Hochfelden)、シュヴェイグハウゼ(Schweighouse)、マルレンハイム (Marlenheim)、ミュンスター (Munster)などの土地を管理するヴィッセンブール修道院 (wissenbourg) の協力をえた。フレデリックの兄はストラスブールの司教として命名された。エギスハイム家にとってはたまったものではない。(地図4)

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地図4

教皇派のエギスハイム公と皇帝派のホーヘンシュタウフェン公は歩み寄りの交渉を開始するが、とたんにエギスハイム公は殺されてしまった。ストラスブールの司教オットー(フレデリックの兄)の家に招待された時のことである。

この事件によってホーフェンシュタウフェン家の風向きは良くなり、地域の権力を一気に掌握していく。その象徴として、フランス王室の反対を押し切ってサンドニ修道院を破壊して跡地に新しい城、エスチュファン城 (Estufin) の建設を開始する。現在そこには、ヨーロッパ一美しいとといっても過言ではないオー•クニスブルグ城 (Haut-Kœnigsbourg)が建っている。フランス国内の観光人気ランキングでいうとモンサンミッシェルの次に来る城である。(写真1)

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写真1オー•クニクスブルグ現在の姿。19世紀大改築されているので原型の姿ではない

同年、皇帝派バールの司教はホーフェンシュタウフェン家に貢献したとしてサン•ウルリック城(Saint Ulrich)の管理を任された。ホーフェンシュタウフェン家の力はアルザスでは古くから神聖な場所としてあがめられているモン•サン•オディール修道院 (Mont Sainte Odile) にまで及んだ。 ハグノー市 (Hagneau) はホーフェンシュタウフェン家の中心都市となり、新しい城が作られた。(地図5)

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地図5

マインツ(教皇)VSホーフェンシュタウフェン(皇帝)

その頃、帝国の中でも影響力の強いマインツの大司教が神聖ローマ皇帝による不法な裁判によって投獄されていたのだがついに釈放された。帝国を恨むマインツ大司教はローマの教皇と手を結ぶ事によって帝国そして帝国側であるアルザス両者に反旗をひるがえす。マインツはアルザスの北に位置するため、北部が危険地帯となる。ホーフェンシュタウフェンは皇帝擁護貴族であるリュッツエルブルグ公 (Lutzelbourg)が管理するフレッケンシュタイン城 (Fleckenstein)とファルケンシュタイン 城 (Falkenstein)を利用して北アルザスを防御。

フレッケンシュタイン城はその雄大な姿が人気というだけでなく泉伝説があり、アルザス地方ではオー・クニクスブルグ城の次に訪れる者の数が多い。(地図6)(写真2)

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地図6
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写真2

 

マインツ大司教は1125年、当時の神聖ローマ帝国皇帝(ザーリアー朝)のハインリッヒ5世が死んだのを機に、反撃にうってでる。自分の息のかかったズップリンブルク家ロタール3世 (Lothaire de Supplimbourg)を皇帝に当選させ、同盟貴族をアルザスに配置した。北側アルザスを統一する役目をハプスブルグ家に、南側アルザスの取り締まりをフネブルグ (Hunebourg)家にまかせた。

ザーリアー朝の皇帝と運命をともに拡大してきたホーフェンシュタウフェン家は権力を失う。1127年、ホーフェンシュタウフェンの政治中心であったハグノー市も危機に陥った。

その頃ホーフェンシュタウフェンの管轄の中心となったのはヴィセンブルグ (Wissembourg)とハグノー (Haguenau)。ホーフェンシュタウフェン家は騎士をハグノーに駐屯させ北部ヴォージュ山脈の城を巡視させるというシステムを作った。フレッケンシュタイン (Fleckenstein)、ホーフェンブルグ (Hohenbourg)、リュッチェルハルト (Lutzelhardt)、ファルケンシュタイン (Falkenstein)、ヴァシゲンシュタイン (Wasigenstein)などの城がその例である。(地図7)

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地図7

フレデリック(ホーフェンシュタウフェン皇帝時代幕開け)

しかし皇帝ロタールが即位12年後の1137年に嫡子なくして他界。ホーフェンシュタウフェン家のフレデリックとサクソン地方を牛耳るハインリヒ10世の二人が神聖ローマ帝国の皇帝の座を争うことに。のりにのって、とどまることをしらないホーフェンシュタウフェン家、コンラット 3世(フレデリックの弟)はついに神聖ローマ帝国の皇帝となる!いえいえ、当時弱小勢力に過ぎなかったコンラート3世が新たな皇帝として選ばれたのは超有力貴族だったハインリヒ10世に強力な権力を与えないための対策だったらしい。

この次期に様々な城がホーフェンシュタウフェン家によって買収された。ちなみにセレスタ(Sélesta)とキンツハイム (Kintzheim)が発展したのはオー•クニクスブルグ城 (Haut-Kœnigsbourg)とグラン・リボー・ピエール城 (Grand RIbeaupierre)に守られた城下町だったからである。アルザスの聖地であるモン・サン•オディールの城下町はオーベルネ (Obernai)だった。城下町ではないが、エギスハイム公牛耳るアルザス南部の主要都市であるマンステールとミュールーズをまでも支配下においた。(地図8)

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地図8

赤ひげ(ホーフェンシュタウフェン家の成長)

コンラットの死後は、そのひとつ前の家長であるフレデリックの息子(つまりコンラットの甥)のバルバロッサ(赤ひげ)が戴冠。教皇からも認められた皇帝として君臨、アルザスが神聖ローマ帝国の中心となる。

赤ひげ公は北部アルザス、サヴェルヌの岩山工事をストラスブール司教に一任する。予期せず結果としてストラスブール司教に大きな権力をあたえる事となった。それから1世紀もしないうちに司教はホーフェンシュタウフェン家にきばをむくことになるとは。(写真3)

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写真3

赤ひげはまず1162年にホーフェンシュタウフェン家に対抗してきたエギスハイム家(近郊の有力貴族ダボ家との結婚によりダボ=エギスハイム Dabo-Eguisheimという名になっていた)への対策として要塞を作った。1168年、ダボ=エギスハイム家はコルマール近郊のホーフェンシュタウフェン家所有の城を破壊、緊張が高まる。同年、ダボ=エギスハイム所有ギルバーデン城 (Guirbarden) が皇帝隊によって破壊される。

ホーフェンシュタウフェン家とダボ=エギスハイム家以外にも実力をつけていく貴族がいた。アルザス最南端に位置するズントゴー (Sundgau)一木のフェレット家 (Ferrette)だ。もともと有力貴族であったモンベリアール家 (Montbéliard)の傍家で、アルトキルシュ城 (Altkirch)、フェレット城 (Ferrette)、リーベンシュタイン城 (Liebenstein)、モリモン城 (Morimont)などを建設、城下町を城壁でとり囲い、周囲に左右されない独自の政治体制を敷く。またフランケンブルグ 公 (Frankenburg)は昔から交通が盛んで流通の要となるヴァル•ドゥ•ヴィレ (val de Villé)とヴァル・ドゥ・リエーブル (val de Lièpvre )に城を建設した。

歴代のドイツ神聖ローマ皇帝は狂ったようにイタリア遠征&十字軍遠征するのだが、赤ひげも例にもれない。世界最初の近代人と呼ばれた皇帝は1190年の十字軍遠征中に落馬、川に落ちて死んだ。

ハインリッヒ6世(早すぎる死と内乱)

とても優秀な皇帝赤ひげの息子、ハインリッヒ6世(1190-1197) も優秀、皇帝の座を22歳にして相続。やはりイタリアに遠征に没頭、シチリア王国となる。しかしシチリア島のメッシーナであっさり没した。惜しまれた死である。ハインリッヒ6世の息子(将来のフレデリック2世)が若年すぎたため、すぐ戴冠することはできずハインリッヒ6世の弟であるフィリップ(1177-1208)が候補にあがるが、アルザス兼シュヴァーベン地方の伯爵であるオットー•ブランズヴィックも皇帝の座をかけて争う。

当時のローマ教皇のイノケンティウス3世はオットーをドイツ王であると擁護し、さらにフィリップを教会から破門教皇派君主達やボヘミア地方の君主達はオットーを擁護。ストラスブール市はホーフェンシュタウフェン家側につくが、ストラスブール司教はなんとオットー指示。エギスハイム公はストラスブール司教と手を結ぶ。戦火の舞台となったアルザス、オー•クニクスブルグ城とギルバーデン城(共にエギスハイム公所有)そしてウナブルグ城とハルデンブルグ城(共にストラスブール司教)が破壊されました。

フィリップは当時のフランス王フィリップ2世尊厳王 (Philippe Auguste)の協力をえて、イノケンティウス3世と和解した上で皇帝の座につくことになります。しかしまたたくまのうちに皇帝フィリップは暗殺されました。結局、神聖ローマ帝国の君主達はオットー・ドゥ・ブランズヴィックが皇帝に。ホーエンシュタウフェン朝は一時的に歴史の表舞台から姿を消した。

強引なオットーの即位にホーエンシュタウフェン家が反発し帝国内乱状態。方針の定まらないインノケンティウス3世、今度はオットーを破門したあげくに帝国での反乱を扇動。1211年には帝国諸侯はオットーの廃位を決定した。

13世紀のお城(黄金時代)

さて、13世紀にはいるこの時代、城建設に革新が見られるようになる。少人数&高パフォーマンスな戦争術が編み出されるようになり、そのような戦術にあわせた城作りがはじまる。12世紀までは城塞は山頂につくったが、13世紀は山頂に作らず、山腹に隣接するが谷で分断されたような起伏地形が好まれました。このほうが効率的な防御が可能になるからだ。その頃の城塞には天守が必須になり、要塞の角や門前に設置され、塔の形は四角から丸に変形。そして城塞の回りには以前にもまして高く分厚い城塞が建設された。弓での戦闘にそなえた設計がなされた。いい例としてはオーテンブルグ城 (Ortenbourg)があげられる。(写真4)

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写真4

アルザスでは城同士の同盟が盛ん。ホーフェンシュタウフェン家は中心のオー•クニクスブルグ、東のモン•サント•オディール山、北のヴィンドシュタイン城を同盟にいれ、またランズベルグ城 (landsberg)とラトサムハウゼン城 (rathsamhausen)を建設を開始。

ダボ=エギスハイム家はバーンシュタイン城 (bernstein) を強化、この城は筒形の天守閣ではなく多角形の天守閣が特徴。(写真5)豪華なロマネスク様式で建設された新ギルバーデン城 (Guirbaden)は当時のエギスハイム家の栄華を反映させたのだった。(写真6)

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写真5

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写真6 現在廃墟

 

フレデリック2世(ホーフェンシュタウフェン家の成熟)

赤ひげの息子、ハインリッヒ、と続いて優秀だったホーフェンシュタウフェン家新当主であるフレデリック2世はさらに優秀!!!教皇と和解、帝国のシチリア撤退を引き換えに皇帝の座をえました。フレデリック2世は父や祖父と同じようにイタリア遠征をつづけます。絶対にイタリアを帝国に吸収したかったのでしょう、イタリア撤退の約束はまったく守りませんでした。このように信頼関係を築こうとしないフレデリックに対してドイツの君主達はさじをなげ、教皇からは破門処罰。自分の息子からさえも呆れられた。

1210年、フレデリック2世はロレーヌ公に4000マルクの支払いと引き換えにオットー・ドゥ・ブランスヴィック (Otton de Brunswick)討伐を依頼。オットーが消え、フレデリックは再び力をつけた。1213年、ロレーヌ伯公は他界したが、その息子のチエボー (Thiébaut)はフレデリックに未払いのままになっていた4000マルクの支払いを命じる。しかし、フレデリックは父に対する借金は息子には関係がないと支払いを拒否。ロスハイム (Rosheim) は4000マルクの資金調達がされるまでに父のフレデリックに担保として与えられた都市だったためチエボーは、ロスハイム を剥奪することを宣言。チエボー軍は問題なくロスハイムに入場。飲めや歌えやの宴会を開き、軍が寝入ったとたん、軍は住民に殺戮されてしまった。捕らえられたチエボー公は脅迫され、4000マルクを諦めざるをえなかった。

その後チエボーは自由の身になりましたが、生まれ故郷であるロレーヌにもどる道中なぞの死を遂げる。ホーフェンシュタウフェンの命令によって毒殺されたのであろう。反ホーフェンシュタウフェンを守り続けるダボ•エギスハイム家の唯一の子息ゲルトルートと結婚していたが、妻のゲルトルードは子供のいないまま、未亡人となった。

ロレーヌとアルザスは隣でありながら異なった歴史を歩み、文化的にも異質な地域である。ロレーヌの人たちはアルザスのことを今でも信頼できない人たちとしてヤジるが、もしかしたら原因はこの時からかもしれない。

14世紀のお城(前半)

ロスハイムでの事件後、皇帝はアルザスの西側の防御対策への関心に目を向けることとなる。そして新しいタイプの城の建設がはじまった。すべての城は近隣の都市と君主をまもる軍駐屯所目的と使われ、主要ルートや都市にむけて監視塔が設備された。ある程度の騎士をも宿泊させる事ができる住みやすいタイプの大きな城が特徴となる。このようにして新ギルバーデン城 (Guirbaden)は建設された。さらにロレーヌとアルザスの境界にはヴァンゲンブルグ城 (Wangenburg)とカイゼルベルグ城 (Kayserberg)、マンステールへの入り口となる斜面にプフィクスウルグ城 (Pflixbourg) 、首都ストラスブールの北にハルデンブルグ城 (Haldenburg – Mundolsheim近辺)と続く。(地図9)

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地図9

グラン・リボー・ピエール城(現・サン・ウルリック城)のすぐとなりに傍家のギルズベルグ家が城を新築、近郊のオー・リボー・ピエール城と合わせ3つの城が近接した風景が作り上げられた。(写真7)

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写真7

エギスハイムの唯一の子孫であるゲルトルートは皇帝フレデリックの反対をよそにシャンパーニュ公と再婚。しかし王妃が子供を埋めない体だという理由で離婚。離婚の翌年、シモン•ドゥ•リナンゲと再婚するも子孫を残さずヘッレンシュタイン城(Herrenstein)で他界。

ストラスブール司教

そこにストラスブール司教のベルトルト•ドゥ•テック (Berthold de Teck)がしゃしゃり出てきて、自分自身こそがエギスハイム家の正統な遺産受給者であると発言。ここに、長い長い継承戦争が勃発した。継承を主張する者のなかには南アルザスを牛耳るフェレット公の姿も。15年におよぶ戦争の間、司教はシモン•ドゥ•リナンゲからギルバーデン城を継承し、地主からオー•エギスハイムの一部も購入、1228年にはハプスブルグの援助をえてフェレット公に戦いを挑んだ。

次のストラスブール司教ハインリッヒ•ドゥ•スターレック (Henri de Stahleck)は帝国の自分こそがアルザスの統制者として宣言し、ホーフェンシュタウフェン家の土地の掌握にかかる。

その例はきりがないがオー•バー (Haut-Barr)、ダシュタイン (Dachstein)、モルスハイム (Molsheim)、ギルバーデン (Guirbaden)、バーンシュタイン (Bernstein)、ルファック (Rouffach)、カイゼルベルグ (Kaysersberg)、リンゲルシュタイン (Ringelstein)、イルヴィッカースハイム (Illwickersheim)、ゼレンベルグ (Zellenberg)、ユンゴールツ (Jungholtz)、リナウ (Rhinau)、スルツ (Soultz)、ラプティット・ピエール (La Petite-Pierre)、ヴィネック (Wineck)、オナック (Honack)、タン (Thann)である。クローネンブル (Kronenburg)は破壊された。フェレット公はダボ•エギスハイムの継承を完全に断念。

大空位時代

同時期はアルザス地方に隣接するスイスのザンクト・ゴットハルト峠が開通。イタリアからスイスを経て運ばれてきた物資は、このアルザスを通過して北へ運ばれるようになった。

またライン川を利用した貿易も良好。アルザス地方のワイン生産は最盛期を迎えようとしていた。イル川の中州に築かれたストラスブール旧市街「グランディル」は、ヨーロッパ交易の十字路だった。木材やワイン・絹などの船荷も莫大な収益をもたらし、アルザスの経済は飛躍的に発展した。

国に皇帝がいない「大空位時代」。貴族や聖職者の権力より都市の経済力の方が重要になっていた転換期間である。(写真8)

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写真8ターナー作

都市が発展すると、経済生活に適しない山の城塞に目は向けられなくなる。オー・アンドロー城 (Haut Andlau)やスペスブルグ城 (Spesburg)どが例外として新しく建設されるが、基本的には以前に建てられた城の補強作業が続いた。天守閣はさらに進展し、要塞に組み込まれ一体化された。メールスブルグ城 (Meersebourg)がいい例である。(写真9)

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写真9

ストラスブール司教のたくらみ、続く

1260年にワルター・ドゥ・ゲロルゼック (walter de geroldseck)がストラスブール司教となる。司教とは思えぬ騎士姿で現在フィギュアとして販売されている。彼はオーベルネ (Obernai)にビルケンフェル城 (Birkenfels)とカゲンフェル城 ( Kagenfels)を、スルツ (Soultz)近郊のオイルヴィラー (Ollwiller)にスペスブルグ城 (Spesbourg)を建設。スルツ市の制圧を試みるも、都市は自由的思想と経済的な発展中。司教が夢見るような統一や自由などには目をくれず。危機を感じたミュールーズ (Mulhouse)、コルマール (Colmar)とストラスブール ( Strasbourg)などの大都市はルドルフに助けを求め、司教に対抗。1262年、私欲に目がくらみ、人気の落ちた司教はオースベルゲン (Hausbergen)にて討たれ、市民は自由をとりもどしたのです。(写真10)

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写真10

ハプスブルグ家

さて、都市を救ったルドルフというのはルドルフ・ドゥ・ハプスブルのこと。アルザス出身の貴族である。都市を救って人気者になった1258年には自前のささやかな土地にくわえて、結婚相手の持参金としてヴァル・ドゥ・ヴィレ (Val de Villé)の土地も手に入れ、オルテンブルグ城 (Oldenbourg)を建設。

アルザスにもっと大きな城の建設に乗り出してもおかしくはなかったのだが、1273年にローマ帝国の皇帝に選ばれ、ルドルフの野心はドナウ河川にと向けられた。オーストリアの中心地となる宮殿建設という大きな夢を抱いて。

13世紀はまだまだ城塞の建設が続く。ワッセンブルグ Wasenbourg城、ラムシュタインRamstein城(バーレンタールBaerenthalとオルテンブルグOrtenbourgの2カ所)、リクトブルグLichtenberg などが例になる。ハプスブルグ家は出身地であるアルザスを愛し続け、1324年にはフェレット家との子息との結婚でフェレットの地を統合します。

14世紀の城(後半)

14世紀の初頭はまだ城が建設されていた。1344年にアンドロー城 (Andlau)、1335年に新ヴィンドシュタイン城 (Windstein Nouveau)、 1316年にヴァルデック城 (Waldeck)、 1479年にはチエルシュタイン家 (Thierstein)がオー・クニクスブルグ城 (Haut Koenigsbourg)を再建。1485年はドゥー・ポン・ビッチュ公 (Deux-Ponts-Bitche)がオクセンシュタイン城 (ochsenstein )の大規模工事にとりかかった。しかし傾向として建設は相当停滞気味。理由のひとつはは貴族の土地が細分化されすぎた事と経済的破綻で、城の継続が難しくなったというのが理由にあがる。山に建設するのは大変だということが分かった貴族は都市の中に城をつくることもあった。リボピエール (Ribeaupierre)の3城がいい例である。ある年老いた騎士は「もう山の敷地は放棄することに決めた、そもそも城に住んでいるわけではないのだし。これからは平地にすむことにしよう、だって風呂も近いし。」と話したという。« so lassen wir unsere Berghäuser abgehen, bewonnen die nicht, sondern vielmehr befleissen wir uns in der Ebene zu wonnen, damit wir nahe zum Bad haben »

ブルジョアの時代

14世紀になると社会、経済、文化生活の中心地は都市に移っていった。君主ではなくブルジョアが力を持つ時代がきたのだ。戦争をするのも城の主ではなく実際の権力を持つ労働組合を構成したブルジョアだっだ。要塞は山の上の城にではなく、都市の回りに作られるようになった。

そしてアルザス地方の10つの都市は提携しデカポール「十都市同盟」という異例の相互援助システムを形成。軍事的に経済的に助け合うネットワークを作った。まるで中世のヨーロッパ連合である。いや、貴族や聖職者を信じられないブルジョア達が「自分たちを助けるのは自分たちしかいないね」と悟ったのであろう。または饑餓やペストに見舞われた悲惨な時期を過ごし各都市に協調性が育ったのだろうか。ちなみにデカポールに属すセレスタではヨーロッパで初めての農民蜂起が行われた。農民も自由思想に影響されていたということか。(地図10と写真11)

デカポールの都市リスト

Haguenau(首都)
Wissembourg
Rosheim
Sélestat
Obernai
Munster
Colmar
Mulhouse
Turckheim
Kaysersberg

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ちなみにアルザスの有名なお菓子、パンデピス(英語でジンジャーブレッド、ドイツ語でレープクーヘン)だがこのころ始めて文献で確認することができる。薬屋で販売していたらしいが当時スパイスは高価で生薬としても使われていたことを考えれば納得がいく。交通が盛んで様々な物資が流れてくるアルザスらしい食べ物である。

15世紀のお城

15世紀には城がまったく作られなくなる。発火を利用した武器、特に大砲の進化によって天守や城壁は簡単に壊れてしまうのでわざわざ城を作る意味が薄れていったからだ。1356年には地震が起こり、70の城に被害があった事もきっかけとなる。

その後城塞は封建的な風土の残る地域には貴族の権力を象徴するものとして君臨し続けた。ただ、大貴族が城塞をもつ時代が終わり、小さな貴族でも城塞を持てる時代になった。小さな貴族たちは共同経営者を募り城塞現状維持を続けたが、徐々に城に対する高貴なイメージは失われていった。そのうち維持されなくなり、盗難被害なども増え朽ち果てていった。都市は城の運命と相反するように反映していった。

15世紀以降、城はどのように使われたのだろう。ショーネック城 (Schoenec)は弓矢の練習場となった。ラザール•ドゥ•シュヴェンディ (Lazare de Schwendi)は戦場から足を洗い、アルザスで退職生活を過ごすためオー・ランズベルグ (Haut Landsberg)を住居として改築した。大金持ちのフッガー・ダウグスブルグ(Fugger d’Augsbourg)はフェレット城 (Ferrette)を買い取った。16世紀後半にはシッキンゲン家が中世色濃いオーヘンブルグをルネサンス様式の城に改築した。

城の終焉

17世紀の30年戦争は城の終焉を意味する。当時アルザス掌握に燃えていたルイ14世はアルザスの城がフランス王国にとっての反対戦線になると考え天守を破壊。6世紀の間栄華をたたえたハグノー市と城は塵となる。アルザスがフランスの一部となった後、一握りの城がヴォーヴァン (Vauvin) によって改装された。ランズクロン (Landskron)、リクテンブルグ (Lichtenberg)、プティ・ピエール (Petite Pierre)などである。他にも18世紀までわずかながら住居として使われていた城もある。オー・バール(Haut-Barr)、ヴァッセンブルグ (Wasenbourg)、アンドロー (Andlau)は19世紀初頭まで住居として使われた。城を所有していた貴族は革命で打ちきえ、朽ち果てた城は国の所有物となった。第一次世界大戦中に大砲で破壊された城もある。フルンドシュタイン (Freundstein)、ヘレンフラー (Herrenfluh)、ヒルツェンシュタイン (Hirtzenstein)、シュヴァルツェンブルグ (Schwartzenbourg)などである。

城巡り

過去アルザス地方には450以上の城が建てられた。そのうち1/3が現存している。さらにそのうちの2/3以上は過去に大改修されて原型をとどめないものも少なくない。オリジナルの状態をとどめ、保存状態のいい城の見学をご希望ならラントスクロン城(Landskron)、ホーランズブルグ城 (Hohlandsbourg)、サン・ウルリック城 (Staint Ulrich)、キンツハイム城 (Kintzheim)、オルテンブルグ城 (Ortenbourg)そしてワッセンブルグ城(Wasenbourg)を勧めたい。とくにサン・ウルリック城 (Staint Ulrich)、キンツハイム城 (Kintzheim)、オルテンブルグ城 (Ortenbourg)は互いに距離も近く、また廃墟城も見ごたえがあるので注目あれ。フランス一美しい村100選に選ばれたエギスハイム、リボービレー、リックヴィルも近いし、コルマールもすぐだ。のどかなワイン畑を景色においしいアルザスワインもいただける。これからもアルザスに注目あれ。(地図11)

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地図11

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